街のはなし 自治会館
machinohanashi 街のはなし
自治会館
自治会館_3

自治会館オープン記念は本物のロダンの彫刻が並んだんですよ。

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まず、原野みたいだったところが、なんでこんなにすごい街になちゃったのか、ということの起こりですが、1945年に日本が戦争で負けました。そのときは、空襲で東京の街も川崎も横浜も全部焼けて、みんな破壊されちゃって、それでしかも占領されちゃって。そのなかでみんな一生懸命働いてね、まあ二度とこんなことがあっちゃいけないということで、一生懸命働いて10年くらいしてね、1955年、昭和30年くらいですかね、戦争の前の姿に戻ったんですよね。それから復興努力でそれまで地方に分散していたいろいろな会社が本社機能を東京に移してきたと。そうこしているうちに東京オリンピックをやろうというはなしが出ましてね、それにともなって、新幹線ができた、東名高速ができた。ね、まあ、環状6号、7号、8号、目黒通りだとか、マラソンのために交通網が拡張された。アベベが裸足で走ったところ、僕、見に行ったよ。
で、首都圏の人口がね、ものすごく増えちゃって、焼け跡の住宅ではとてもたりないってんで各所で開発が始まった。戦前から街をつくってた東急電鉄は多摩田園都市という都市計画を立ち上げた。そんなわけで随分こちらへと引っ越ししてきた人たちがいた。

私が家をつくったのは昭和42年です。当時は元石川という地名だった。
元石川の名前のほうが良かったってみんな言うんですよ。
いま、美しが丘には900軒くらいありますけれどもね、たぶん私はね、20番目くらいに引っ越しして来たんだと思うんですよ。
そのころはもう家がポツンポツンしかなかった。
電車が走ってきたのは昭和42年の3月だと思います。
あの古いグリーンの東急電車知っていますか?
いま、渋谷のハチ公の前に置いてありますよ。

引っ越しした当時、まだいろいろ不便な事もあって、あるのは電気と水道とガスだけ。学校もない、電話もない。それでそこに住んでいる人が少しずつ集まってきて、「自治会のようなものをつくろう」と言い出したのが私でした。

自治会館_3

十人会といってそのトップが私でした。
十人会を始めたのがね、えーと、44年からです。それで、住宅街の北側の菅生緑地の向こうの、いまは北部市場になっている場所に流通センターをつくるという話が持ち上がって、それを阻止する運動を起こした。そのためには任意の団体じゃあ弱いし、やっぱり自治会にしましょうってことで、自治会になったのが47年でした。自治会になったとき、ボスはつくらないってことにしていて、新しい街だからなるべく全員参加で、偉い人、勲一等の人にも当番やってもらうことにしました。それでみんな参加してくれて、自治会を通して知り合いが広がって、ご夫人たちにとっても良かったんじゃないかな。
自治会館をつくろうかってはなしはその後派生的に出てきたんですよ。流通センターができることに対して、行政訴訟をやろうとしてね、住民からお金を集めたんですよ。でも途中でやめたんです。それでそのお金を自治会館つくるときの一部にした。自治会館が建ったのが昭和54年の8月。

実は僕は自治会館を建てるときに、もっと大きなものつくったら?って案を出したんですよ。それはなぜかっていうと、当時各お家に冷房がまだ完全になかったこともあって、旦那は働きに行っちゃうけど、奥さんたちがそこで編み物やったりね、歌を歌ったりするスペースを広くとって、お弁当とってそこで食べられるようにしてクラブハウスみたいにしたら?って言ったら、周りの人に、それは贅沢だよって言われちゃった。
でも、自治会館ができた年にはロダン展をやりましたね。
あれは、東京から大阪へ持って行く展覧会を新横浜で途中下車させて、1日か2日間。だから自治会館オープン記念は本物のロダンの彫刻が並んだんですよ。

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